背の高いソメイヨシノが光を遮っている。少女はそれをぼんやりと見上げ、それからまた 主のいない薄汚い化学実験室の床を見下ろした。薬品が飛び散り所々焼け焦げた 化学実験室の床は少女を拒まない。背の高いソメイヨシノが少女の顔に陰を作る。 先生、と言いかけて少女は口を噤んだ。世界は赤に沈もうとしている。 窓の外で背の高いソメイヨシノが揺れている。先生の愛するソメイヨシノだ。

「君、馬鹿なんじゃないの」
握り締めた鍵が軽い音を響かせて手のひらを転がる。背中を刺した声は生暖かった。 どうして君が鍵を持っているのかな。化学実験室のドアを開けて早々に 先生は顔を顰めたらしい。
「先生が白衣から落としたんじゃないんですか」
「それおいてさっさと帰ったらどうだい?」
背の高いソメイヨシノが窓の外で揺れている。先生の愛するソメイヨシノだ。 電気はついていない。振り返ると先生はソメイヨシノを見つめていた。 先生の愛するソメイヨシノは今日も元気だ。
「先生冷たいね」
「君は面倒だよ」
「そんなにそのソメイナンチャラが好きなんですか?」
「ソメイヨシノだって、何回も言ってるだろう」
キャッチボールにならない会話が薄暗い化学実験室にぼこぼこと穴をあけていく。 少女が手のひらに包んだ小さな金属が少し寂しげに転がった。 薬品や焼け焦げにまみれた床は先生に愛されていない。学生がおざなりにした 掃除に文句を言うでもなく、少女を拒まない。
窓から手を伸ばして先生はソメイヨシノをそっと撫でた。 栄養管理から水やりまですべて先生が手をかけているらしいソメイヨシノは今日も元気だ。
「毎日毎日、そうやってて飽きませんか?」
開け放たれた窓から青臭い草と木のにおいがする。
「君こそ、毎日毎日その様子を眺めてて、よく飽きないね」
浅葱色に染められたカーテンが緑色の風にさらわれていく。
「すきなもの見て飽きる人いませんよ」
「君、僕のこと好きだったの?」
「先生くらい見てて楽しい人いませんから」
「ああ、そう」
なんだか不機嫌そうに吐き捨てて、難しい顔をして先生は少し黙り込んだ。 どうやらソメイヨシノの具合が良くないらしい。白衣のポケットからメガネを 取り出して気難しそうに首を傾げている。聞いても分かるはずが無いから その様子を黙って眺めていると、しばらくして先生は諦めたように溜め息を吐いた。 だいぶ暗くなりつつある部屋の窓に背の高いソメイヨシノが揺れている。 少女にはまるで嘲笑うように元気にしか見えない。
「メガネもよく似合いますね」
「それはどうも」
ソメイナンチャラがどうかしたんですか、とは聞いてあげない。化学実験室の 窓際に居座るソメイヨシノは先生に愛されている。光を遮り今にも崩れそうなオレンジ色の空の下、 その惜しみない愛を一身に受けるソメイヨシノはなぜか無性に輝いて見えた。
「先生はソメイヨシノと私が崖に吊るされてたらどっちを先に助けます?」
「ソメイヨシノに決まっているだろう」
「ですよねえ」
そうなんですよねえ。くるくると指先で鍵を回す。見咎めたのか軽く横目を流した後、 先生はやっぱり諦めたように溜め息をこぼした。
「スペアならあるし、毎日来るなら、それあげるよ」
「……取次ぎが面倒だからですか?」
「僕のソメイヨシノになにもしないのならね」
どろりと沈みかけた世界が窓の向こうで揺れている。ソメイヨシノがなくなったら 先生はもしかしたら泣くどころじゃすまないのかもしれない。 背の高いソメイヨシノの消えた窓からふらふらと飛び立つ先生の姿を想像して、 少女はソメイヨシノと先生の消えた世界を思った。そして安堵した。
ああきっと生きていける。ただ、その世界でほんの少しの物足りなさが私を蝕むのだとしても。
「先生はソメイヨシノを愛している」
「そうだね。少なくともそこいらにいる人間よりはずっと」
「世話がもう過保護ですもんね」
「それは仕方ないだろう」
ソメイヨシノは苦しいときに苦しいと言えないからしっかり面倒をみてやらないと。 一固有名詞に限定した偏愛と偏見を当たり前のように呟いて、先生は初めてふわりと微笑んだ。 それなら先生私もなんだか苦しいんですけど。内心考えながらソメイヨシノを愛おしそうに撫でる 先生を見る。それから床に散らばる焼け焦げに目線を移した。なんて見事なアウトオブ眼中。 手のひらに納めたままの小さな鍵がやわらかく鼓動した。崩れたオレンジ色の空が始まりを告げ、 同時に終局の時を待ち始める。
背の高いソメイヨシノが黒々とうごめき空にとけこんでいく様子をぼんやりと眺めていた。 先生は手を離さない。言っても無駄だと分かっているから何も言わない。 先生はソメイヨシノを愛しソメイヨシノは先生に愛されている。ソメイヨシノは先生を愛しているだろうか。

少女は現在木に負けていて、しかもしばらくは勝てそうにもない。


『ライバルは桜』

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